imoshunのブログ

笑って貰いたい。就活で最初から最後まで上手くいく人って少ないと思うので、疲れたときにクスっと笑って「また頑張ろー」と思って貰えるようなブログにしたいです。

特別は普通を求め、普通は特別を求める

隣の芝生は青く見える
ということわざがある。これは、他人が持っているものは、往々にして自分のものよりよく見えるという意味だ。私は隣どころか1万キロメートル離れた芝生も気になるタイプなので、3カ月生きる中でも「いいなー、うらやまCィィ」と感じることが100回ほど出てくる。

そこで今日は、橋本奈々未 大先生(元乃木坂46)の「ないものねだり」という曲の歌詞を4部構成で考察していこうと思います。まあ、冗談ですけど( ̄▽ ̄) 

 

 

特別は普通を求め、普通は特別を求める

真面目な話、最近かなり自分と他人の「ないものねだり」がはっきり見える。その解像度の高さは、好きな子と一緒に帰れると決まった男子中学生の脳内を予想した時の解像度の高さに匹敵する。

例えば、この間は西南大学の就活生と話した。授業、サークル、バイト、飲み会と、いわゆる大学生の王道を行っていて、The大学生という感じだったが、話を聞くとマハキ〇の代表に憧れていた。自分の好きなことを発信したり、活動を頑張ったりしていて、すごくキラキラして見えるし、カッコいいとのことだった。The大学生といえる大学生活を送った結果、命燃やして何かを頑張るとか、誰かにとって特別な存在になる感覚は少なかったのかもしれない。

 

ちなみに、ないものねだりは自分より凄い人に対してだけ起こるものではない。

 

先日、エンカレッ〇九州支部支部長と海に行った。正確には覚えてないが、「夏に海行って遊ぶって大学生っぽくていいね、あまりしてこなかったわ」的なことを言っていた。やりたいことや想いと真摯に向き合い、自分の道を切り拓くような生き方をした結果、おそらく一般的な大学生が経験しているような楽しさは少なかったのだと思う。さっきとは逆で、普通に対するないものねだりもあるのだ。

 

余談だが、私はキングof ないものねだりだ。
スーパー能力が高かったり華があったりすることもないので、平手友梨〇のような天性の才と努力で圧倒的なパフォーマンスを披露し孤高の存在になることにも憧れるし、一方で、人付き合いが悪く大学1〜3年生の期間は年3回くらいしか飲み会を経験しなかったので、毎日飲み会でスピリタス(度数96%のお酒)を浴びるように飲んでバカ騒ぎするのも楽しそうだと思う。(※飲み会のデータ不足により、普通の飲み会でスピリタスが出るのかは不明)

 

 ないものねだりはいずこから

特別にも普通にも憧れる「ないない型」の自分は、ないものねだりがどこから起こるのかすごく気になった。色々検討した結果、シンプルな解としては「他人を見ることから起こる」だった。

他人を全く見ない人間は、自分こそが基準であり、そもそも自分に「ない」を感じることが少ないので、ないものねだりが起きづらく、逆に他人をよく見る人間は、自分に「ない」を見出すことが多いのでないものねだりが起きやすい。

じゃあそもそも他人を見てしまうのはなぜだろう?
ケース1:義務教育の中で他者比較をされて育ったから(環境的背景)。
ケース2:日本で長らく続いた村社会では、仲良くなったり他者を出し抜いたりするために他人を見ることが必要だったから(歴史的背景)。
ケース3:SNSで他人の日常が見えやすいから(時代的背景)。

色々ありそうで、ぶっちゃけ分からなかったが、とりあえず考えるのが楽しかったので次にいこう。

 

仮説思考(想像力)で現実みるってばよ

時を戻して、ないものねだり本編に話を戻すと、ないものねだりが多い人に必要なのは仮説思考(想像力)だ。

正直、自分がホントに〇手友梨奈になったとしたら、求められるパフォーマンスへの期待に疲弊して3日で〇坂46を脱退するだろうし、飲み会でスピリタスを浴びるように飲む生活を続けたら、怠惰な自分に自己嫌悪するか、変わらない生活に飽き飽きするだろう。

1分間想像を膨らませて、羨んでいる相手の生活を実際に自分がやっている脳内シミュレーションをしてみると、素敵な面だけでなくきつい面も見えてくる。

・自分がその人になった時、周囲からは何を期待されているか?
・自分がその人として生活した場合、生活の自由度はどのくらいか?
・自分がその人のように生き続けるとしたら、365日続けた時に自分はどんな感情になっていそうか?
1つひとつクリアにしていったら、単純に自分には「ない」ものを欲していただけで、心から求めていたものではなかったと気付ける。そんな「ない」ものを欲して手に入れても、心は満たされない。単に「ない」ものではなく、自分の心が強く求めているものを見つけて手に入れていくことが大事なのだと思う。

 

隣の芝生もぶっちゃけ青くない

最後に、隣の芝生は青く見えるの由来だが、
自宅の芝を見る時は上から見ることになるため枯れた芝が目立ち、隣の家の芝生を見る時は斜め上から見ることになるため角度がついて枯れた芝が見えにくく青々と見えるところからきているらしい。

要は、自分を見る時は良いところも悪いところもはっきり見え、他人を見る時は角度がついて良いところばかり見えるのだ。本当は隣の芝生も思ったほど青くないらしい。